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我が第二の故郷 嬬恋村

目次

その1
1.嬬恋村事始め
2.子供の幼稚園、そして山荘建設へ


その2
3.嬬恋の謂われ、そして


その3 
4.浅間焼けの記憶


その4
5.嬬恋村のあれこれ

1) クマさんのこと

  2)戦後の開拓、そして「夏キャベツ日本一」へ



その5 

3)     貴重な観光資源「高山植物」

  4)    別荘産業

 5)    村の運営、財政など


その6
6.
嬬恋村に想うこと



六合村の記憶


014年末番外編


2015年末番外編


戸田冬樹さんへのメールはこちら

●2016年我が家の干し柿顛末記

数年にわたり我が家の「干し柿顛末」について報告をしてきたので、ご記憶の方もおられようが、あらためて以下に概略を認めよう。

 

我が家の女房殿は大の干し柿好きで、毎年産地の渋柿を買い込んで干すことを楽しんでいる。

 

4年前には山梨・道志村で買って帰った渋柿を川崎の我が家のベランダで干したのだが、気温が高めのせいか出来映えはイマイチだった。

 

3年前には、信州・高山村で買ったブランド渋柿「ヤシマ」を上州・嬬恋村の自己山荘のベランダに干したところ、朝晩の冷え込みがよろしいのか、とても美味しい干し柿が出来た。

 

これに味を占めた女房殿は、一昨年にも同様の試みをしたが、なんと鹿とおぼしき四つ足獣にそっくり全部掠われてしまった。

この顛末にはそれ相当の事情が関わっている。すなわち我が家では11月上旬位に山荘の冬仕舞をするので、渋柿を山荘のベランダに吊して本宅に引き揚げ、ほぼ一ヶ月後に収納に行くのである。

3年前には無事であったが、一昨年は鹿が察知したようで、留守中にひとつ残らずやられてしまった。

被害の惨状を目の当たりにしたとき、野鳥の仕業か、リスか、あるいは鹿かと地元のひとと議論したが、ベランダに残る足跡が四つ足獣のものなので、おそらく鹿であろうと推察された。

 

昨年は、我が女房殿は干し柿作りを諦め加減であったが、妻を愛する主人である小生が軽井沢・大日向に山荘を持つ友人のK夫妻にお願いして、山荘の軒下に吊して頂いた。K夫妻は冬季もおおむね山荘に滞在されるので無事だったのだが、吊した環境がサンルームのような場所だったため、風通しが悪かったのと日当たりが強かったことで乾燥が進み、あまり出来映えが良くなかった。

 

そこで今年である。

K夫妻も干し柿作りにご執心なので、共同作戦を図ることになった。

今年は吊す作業に先駆けて、小松の旦那が我が山荘のベランダに鹿防御のネットを張ってくれた

小松旦那は先年まで某大学の比較文化を専門とする大学教授殿だったのだが、一方で棟梁を自認する工作好きで、強力な電動工具などを自在に使いこなす実力の持ち主である。

(それにひきかえ、小生は幼少期から図画工作の類が大の苦手で、我が家にはトンカチとペンチ、ドライバー位しか大工道具がない有様で、コンセントひとつも直せない体たらくだ。)

小松旦那は今回もその力を駆使して、短時間で防御ネットを仕上げてくれた。

11月初めに信州・高山村まで同行し、双方が渋柿の仕入れを敢行した。件の「ヤシマ」は、昔風に言うと百匁柿に相当する大きなもので、一箱10キログラム3千円位の高価なものである。

K夫妻は二箱、当方は一箱買ってきたが、合わせると90個位の数になり、吊した姿も壮観であった。

かくして11月初めに吊して帰った渋柿を12月初めに収納に行ったのだが、今年はすべて無事であり大変満足な出来映えの干し柿を収納できた。

はたして鹿クンが覗いたのかどうかそれはわからないが、如何ともしようがなかったものと思われる。

 

本年も今日で終わりであるが、女房殿は出来映えの良かった干し柿を使って、正月料理のナマスなどをせっせと作っている。

ことほど左様に我が家の2016年は無事に暮れようとしている。

K旦那、お世話になりました。

 

写真:

    005: 収納前の干し柿

     001: 完全防備

    006: ご満悦のK氏

    002: 一昨年の残骸

    057: 彼女は貴種の鹿で、関係ありません。 

                                           (了)













●我が第二の故郷嬬恋村 2015年末番外編

 
とうとう11月に入り、首都方面でも朝晩は相当寒くなってきましたね。
 
小生は、4月下旬から11月始めにかけて群馬県嬬恋村の標高千百メートルにある山荘
と川崎の本宅を往復して暮らすようにしておりますが、10月末日になって朝の最低気温が
零下になったのをしおに、昨日「山荘の冬終い」をして帰ってきました。
 
今年の山荘滞在日数は64日、そのほかに山荘を起点に信州や山梨、群馬などの宿泊施設
に遊んだ日が12日ありましたので、合計して76日を山荘および周辺で過ごした勘定になります。
 
昨年は、11月始めに本宅へ帰る際に家内が渋柿を山荘のベランダに吊して帰ったのでしたが、
12月始めに収穫に行ったところすべてが四つ足動物にさらわれていました。
家内の干し柿好きは極めつけのもので、毎年繰り返してチャレンジしてきました。
三年前でしたが、買って帰った渋柿を川崎ののマンションのベランダに干しましたが、気温が高い
ためか、出来上がりがイマイチでした。
一昨年は思いついて、山荘のベランダに干したまま帰宅し、12月始めに山荘を訪れたところ、
それはそれはすばらしい出来映えの干し柿になっておりました。
それに味を占めた家内は、昨年も同様に山荘のベランダに干して帰りましたが、前述のようなはめに。
昨年の場合、山荘を冬終いする際に業者にメンテナンス仕事を依頼して帰りました。業者が
仕事をしていた二週間ほどの期間中柿は無事だったようです。そしてその後になって持ち去られ、
ベランダには大型動物の四つ足が残されていたので、おそらく鹿にやられたのだと想定されました。
 
この話には、いくつかの後日談があります。
 
この秋、家内と山荘から車で出かけた際に、ごく近い辺りで、立派な角をたくわえた牡鹿が雌鹿
二頭を従えて悠然と飛んでいきました。それを見た家内は、我が家の柿を持ち去ったのはあの鹿
に違いないと叫んだものです。同じ鹿かどうか、定かではないのですが、立派な鹿が近くで暮らして
いるのはたしかなので、何となく納得したのでしょう。
 
さて今年です。
家内は、いったん今年の干し柿造りを諦めた風でしたが、そこは愛妻家の小生が知恵を絞りました。
軽井沢・大日向に山荘を構える友人夫妻が、寒くなっても週の半分は滞在されているのに目を付け
共同作業で干し柿を造ること、その際に山荘の軒下を半分貸して貰う件を談判しました。
幸い、その友人夫妻も干し柿造りに興味を持ってくれて快諾されたので、今年も実行できることに
なりました。
10月26日、家内と山荘を出発して志賀高原を越え、笠ヶ岳から山田牧場を抜けて高山村に
下り、当地のブランド渋柿である「やしま」を二箱購入致しました。一箱約40個入っておよそ10キロ強。
縦長の大きな立派な柿です。このくらい大きな柿でないと、干し柿が小さくなってつまりません。
この「渋柿買い」の道中は贅沢なもので、紅葉を愛でながら斑尾高原の行きつけのペンション「てくてく」
に一泊し和食の美味しい料理を頂きました。さらに翌日は野尻湖から戸隠連山から白馬村に抜けて
オーベルジュ&ホテル「トロイメライ」に一泊し、ワインとフレンチを。
やっと三日目に軽井沢・大日向の友人宅に渋柿を届けた次第です。
12月始めに友人宅を収穫に訪れるつもりですが、美味しい干し柿が出来るのが楽しみです。
 
長くなりましたが、取りあえず 「おしまい」
 
みなさま どうぞ つつがなくお過ごし下さい。
 
写真は   志賀高原の紅葉   
       友人宅に吊した渋柿
       道中の戸隠連山
       ペンション「てくてく」の和食の前菜












●我が第二の故郷嬬恋村 2014年末番外編

このところ地球温暖化の影響と思われる自然現象が多発している。土地、土地の長老などが「この年になるまで経験したことがない」と繰り返すような苛烈な集中豪雨などが頻発しているが、恐らくこの後にはさらに大きな被害をもたらす自然災害が起こることであろう。

 ところで今年、甲信地方などにおける山の実りはひどい不作であったようだ。現に小生が滞在した嬬恋村の山荘付近でも驚くほどドングリや山栗の落果が少なかった。

隣町の軽井沢町には“森林調査官”のような役職があるそうだが、その御仁が宣わく「今年は山の熊が痩せている」と。

柿の実りは良かったようだが、木々の実りもそれぞれ何かの条件の違いが作用するのであろうか。

 

さて自らのことに戻るが、今年も例年のように11月初めに山荘の「冬終い」をした。

26年前に山荘を建てた際に、さしたる知識もないまま業者任せで建築をしたのだが、全くの夏仕様で造ってしまった。石油ファンヒーターなどの多少の暖房装置はあるが、断熱材も入れていない木造住宅は、夜間に零下となる11月中旬以降は居たたまれなくなってくる。それでも建てた最初の頃には若くもあり好奇心もあって少しは冬にも訪れた。しかし暖房が及ぶリビングなどは良いのだが、トイレや風呂場は零下となり、湯船の外の床タイルにシャーベット状の氷が出来る様を見て、「これは体に悪いのでは」と怖じ気づき、以来11月初旬位で冬終いをするようになってしまった。そして軟弱な小生の春の登場は4月下旬位である。

 

ということで今年も11月6日をもって冬終いとなった。

家内は干し柿が大好きで、この何年か自分で皮を剥いて干すようになった。一昨年は渋柿を持ち帰って川崎の我がマンションのベランダに干したのだが、寒暖の差が緩いためか出来がイマイチだった。そこで昨年は、嬬恋村で皮を剥いて山荘のベランダに干して帰り、一ヶ月ほどして収穫に参上したらすばらしい出来映えの干し柿になっていた。

味を占めた家内は、今年も信州・高山村まで出かけて一箱3千円余の立派な渋柿を仕入れて、約40個の皮を剥いてベランダに吊して帰ったものである。

次いで12月7日、勇んで干し柿の収穫に参上したのだが、何とベランダにはひとつの柿もなく、何者かに持ち去られていたのである。渋柿を吊した荷造り用プラスチック紐がむなしくぶら下がっていて、その中に柿のヘタがわずか4個残っているのみであった。

その惨状から見て、人様が盗んだのではなく、何か動物による仕業であろうと思われた。

その証拠にベランダには四つ足動物の足跡がはっきり残っていたのだ。足跡で動物を判別する知識もないが、吊していた高さが1メートル50センチ余位あり、付近に全く残骸等が残されていないことから、十分に身の丈がある動物が安定的な姿勢で採っていったことが想像され、おそらく犯人は熊ではなく、鹿であろうと推測された。

惨状を見た家内は、はじめ言葉も出なかったが、やがて落ち着いてきて、「森の神様に供物を捧げたようなものね」と呟いたが、昨年の干し柿があまりにも美味しく上出来だっただけに「それにしても残念」と悔しがった。

 






注: この鹿は、日本平動物園の貴種の鹿で、当事件の犯人ではない。彼の名誉のために

   付言する次第である。

 

                                    (了)


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●六合村の記憶

                      20148月吉日   戸 田 冬

 

はじめに「祖母の想い出」

私の母方の祖母は、群馬県大胡(おおご:現在 前橋市)の生まれで、旧姓を勅使河原と言った。祖母は師範学校を出た後、小学校の訓導(教員)をし、やがて新里村(にいさと:現在 桐生市)の竹内家に嫁いだ。92歳の天寿を全うした孫、ひ孫に優しい人だった。

その祖母から娘時代に草津温泉に湯治に行った話を聞いた。大胡から草津まで560キロの道程であるが、馬の背に箱鞍というものを置き、股がないで、横に腰掛けるようにして馬子に引かれて行ったと聞かされた。その道中がどのルートをとったのか定かではないが、

おそらく渋川、中之条、暮坂峠、六合(くに)と辿ったのではなかろうか。

私は旧満州のハルピンで生まれた引き揚げ者で、日本国内に故郷を持たない身であった。しかし母方の里が群馬であったこと、家内共々に北軽井沢や上州三原(現 万座鹿沢)に中・高校時代の想い出があること、さらには嬬恋(つまごい)村の知人の山荘に度々寄寓させてもらったこと、などから群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋村に山荘を持つ運びとなり、私たち家族にとってその地が言わば“第二の故郷”となった。

浅間山麓から四方を巡る湯ノ丸山、鳥居峠、四阿山(あずまやさん)、横手山、白根山などの広大な高原風景を見渡すと、いわゆる日本的景観を飛び越えた開放感に浸れ、また都会の喧噪を全く忘れることが出来る。合わせて、嬬恋村の隣接地である「草津温泉」のもたらす味わいや、「六合の里」が醸し出す懐かしさによって、心の底から癒される。

ここ30年余りの間に吾妻の地に置いて多くの想い出を持てたことに感謝の気持ちを込めて、以下に「六合村の記憶」なる小文を書くこととする。

 

                 * * *

群馬県吾妻郡の西北端に位置する山里に、草津町と隣接して六合村(くにむら)があった。「あった」というのは、あの「平成の大合併」によって、六合村は東隣の中之条町と合併したが、「中之条町六合」とはならず、「中之条町・大字名(例えば赤岩)」となってしまい、「六合」の名はそっくり埋没してしまったのである。

そもそも六合村は、明治33年(1900年)に当時の草津村(現在の草津町)と分村して、六つの大字、すなわち「赤岩(あかいわ)」「日影(ひかげ)」「小雨(こさめ)」「生須(なます)」「太子(おおし)」「入山(いりやま)」を合わせて、「六合村」となった。この名前は、古事記にある「天地四方を以て六合(くに)となす」にちなんで名付けられた奥ゆかしい村名であった。

「六合村」は、まさに大いなる山里である。当今、騒がれている「やんばダム」の現場は、長野原町を流れる「吾妻川」を堰き止めるダム計画であるが、その吾妻川の支流として「白砂川(しらすながわ)」が流れ込んでいる。その白砂川は北東の白砂山から西へ向かって、大高山、赤石山、横手山、渋峠等の長野県との県境を形成する2千メートル級の山々から流れ下る数多の分流を集めて、六合村の広域を流れており、大変美しい渓谷をなしている。つまるところ六合村は山と谷川が作るわずかばかりの田畑と、きわめて広大な山林のほか、取り立てたものがない僻村なのである。

そのような僻村ではあるが、いや僻村なるが故に、明治、大正、昭和の激動の時代を越えて綿々と繋いできた懐かしい生活文化が今の世に息づいている大変貴重な村里でもある。加えて、人の手で荒らされていない豊かな自然がそこここに見られ、その地に暮らす人々が素朴な感性を保ち続けていることも大変うれしい。

以下に、そうした「旧六合村」の心温まるエピソードをいくつか紹介してみたい。

 

1.赤岩地区

長野原町から北に向かって、小さな峠を越えたところから旧六合村となり、右側に「赤岩」集落がある。白砂川が作る河岸段丘にへばりつくように集落があり、わずかな田畑がある。

そうした環境のため、明治以降は現金収入に繋がる養蚕が盛んで、蚕室を形成するために木造三階建てのしっかりした構造の民家が今も多数残っている。平成18年には赤岩地区が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。

赤岩集落に「湯本家」という旧家がある。この家の先祖は、頼朝に敗れた木曽義仲勢に加わっていたようで、敗戦の後に西吾妻の地に潜伏して生き残った一派だといわれている。その頼朝が巻き狩りのために西吾妻方面を周遊した際に案内人として駆り出され、頼朝に草津温泉を紹介したという言い伝えが残っている。

草津温泉の中心部にある「白旗の湯」という源泉は頼朝が発見したことになっているが、

遠方からやってきた一団がいきなり温泉を発見できるわけもなく、案内人に紹介されたというところであろう。言い伝えではこのときに頼朝から「湯本」の姓と、草津の地を賜ったことになっている。

その湯本家であるが、時代が下った江戸時代には、赤岩の地で代々に亘って村医者稼業をしていた。合わせて山野草や動物などを原料とした生薬の製造にも精を出し、医薬兼業で産を成していたらしい。裏山には無尽蔵ともいうべき山野草があるのだから、見分ける力さえあればいくらでも生産できたろう。

時は幕末、「安政の大獄」で獄に繋がれた蘭学者「高野長英」が江戸の大火で獄を逃げ出し

赤岩の湯本家に匿われたことがあったといわれている。長英は長崎でシーボルトに学んだ学者であるから、同じ医療分野に携わる知識人同士として湯本家の当主とも親交があったらしい。長英が潜伏していた部屋や、裏山への逃げ道などが湯本家の土蔵作り三階建ての住宅内に保存されている。

 

2.小雨地区、「冬住みの里」

草津温泉は、西の別府と並ぶ天下の名湯であるが、近年まで冬期は閉ざされていたことはあまり知られていない。

江戸時代、春から秋までは湯治客で賑わう草津も、11月になると客も途絶え、雪深い草津に住む意味はなかった。家々は、むしろで囲い、畳や障子などは積み上げて空き家にして、雪解けの春までの期間は比較的暖かい谷あいの里、小雨集落で過ごしたのであった。

小雨に移る日は11月8日、草津へ戻る日は4月8日と決められていて、皆でそれを守っていたという。標高約1300メートルの草津から約500メートルの標高差、約6キロの道のりを下ると、東南向き斜面の小雨集落に至る。

草津の人々は冬の間、小雨の里で、湯治客のための自炊用の薪を用意したり、保存食料や土産物などの準備をしつつ春の到来を待った。

やがて明治時代にはいると、村人はだんだんと冬の草津に残るようになり、近年に至っては道路交通網が整備され、徒歩か馬の背の旅から車社会へ移行し、通年型の一大観光地へと変遷をみたのである。

旧六合村役場の向かいの高台に、「大黒屋」という屋号を掲げた往時の冬住み屋敷が資料館として残っており、その頃の暮らしぶりを知ることが出来る。

 

3.入山地区、野反湖(のぞりこ)

近世まで、お江戸や北関東方面から草津を訪れる湯治客が歩いた主な道は、中仙道の沓掛宿(現在の中軽井沢)から浅間山麓の六里ヶ原を北上して長野原に至るルート、あるいは前橋方面から渋川、中之条、暮坂峠を西行して小雨集落に至るルート、また高崎方面から榛名山の南麓を通り、大戸の関所から須賀尾峠、もしくは万騎峠経由で長野原、もしくは上州三原に至るルートなどであった。「やんばダム」問題の計画地である吾妻川渓谷沿いは厳しい断崖の地形が続いて、江戸時代から明治・大正時代にかけて道らしい道はなかったようである。今の国道145号線は、その後の土木技術発展の賜といえよう。

旧六合村の他の五つの集落は、長野原町から草津に至る国道292号線の両側か、中之条町から暮坂峠を越えて西行する辺り、すなわち村の中南部に集中している。それより北方の広大な地域は「入山(いりやま)」地区と呼ばれている。文字通り“山々の懐”に入っていく山里である。

湯の平温泉、応徳温泉の少し北で、草津温泉に向かって登っていく国道292号線と別れて、国道405号線が入山地区をさらに北上していくが、野反湖のところで自動車道は行き止まりとなっている。さらに険しい山岳ルートを徒歩で北上すると、秘境「秋山郷」に至る。

野反湖はダム湖ではあるが、周辺の2000メートル級の山々と調和して、実に秀麗な景観を作っており、高山植物の宝庫でもある。標高1500メートルの湖には、北から冷たい風が吹き抜けてきて、5月の連休時に湖面が全面結氷していることも珍しくない。しかしその後一気に春を迎え、ヤマザクラに続いて、シラネアオイ、レンゲツツジ、ノゾリキスゲ、コマクサ、マツムシソウ、リンドウなどの花々が次々に咲き競う。

 

4.道の駅 六合

国道292号線が、国道405号線と別れて草津町に向かう地点の少し手前に、「道の駅 六合」がある。ここの道の駅は、こぢんまりとした地味な佇まいであるが、山里の珍しい食材や手作りの土産品などが置かれ、また「六合」の名称が今に残されている貴重な事例でもある。

入山地区には、究極の山里ならではの珍しい生活文化や、農協偏向社会ではもう見られない貴重な食材などが今の世に残っている。たとえば「入山キュウリ」が上げられるだろう。昨今の一般に流通しているキュウリは、太さや長さが均等で、棒のようにまっすぐな、同じ濃さのグリーンのものに限られている。お味や臭いなどもみな同じようなものである。ここに取り上げる「入山キュウリ」は、むっくり太く、少し色あせたような緑色で、この地域で綿々と作られてきたものであるが、一般の流通ルートには全く載らない代物である。おそらく今作っている高齢のお百姓が耕作をやめたら、この世から消え去るであろう稀少品である。皮が固いので、表皮を「ウリ坊」状に削いで食べるのだが、シャキシャキした食感が美味しく、サラダや漬け物にうってつけのキュウリである。

他にも、標高千メートルの高地で栽培される「黒マイタケ」とか、「花インゲン」、「えごま」

など、六合村ならではのものが並んでいる。

生活文化に纏わる土産品では、端布を撚って紐状にして、草履に編んだ「こんこん草履」、無垢の木をくり抜いて成形した急須や捏ね鉢など、ぬくもりが感じられる木工品などなど懐かしい品々に「道の駅 六合」でお目にかかれることが実にうれしい。

 

5.シラネアオイ、コマクサを育む六合中学校の生徒達

野反湖に様々な高原の花が咲き競うことは前述したが、5月末から6月始めにかけて咲くシラネアオイ、そして夏に咲くコマクサの群落育成については、地元の人や六合中学校の生徒達による活動が大きな支えとなっている。

シラネアオイ、コマクサ共々に高原に咲く山野草であるが、開発の営みや心ない人による持ち帰りなどによって、自然の中ではやがて消えていく運命が迫っていた。そうした中、

六合村では何年も前から多くの人々が協力してシラネアオイやコマクサを植え付け保護する努力が続けられている。

シラネアオイの場合で言えば、まず標高千五百メートルの急斜面の笹を根こそぎ刈り取る。笹は繁殖力がめっぽう強く、根は深く蔓延っていて、根こそぎ刈り取るには大きな労力を要する。また予め、近傍の農家にシラネアオイの苗を育ててもらう。ここから六合中学校の生徒の出番である。生徒達は急斜面に展開して、シラネアオイの苗の植え付けに従事する。こうした営みは代々の生徒に受け継がれ、十万本を越える株が根付き、優しい紫色の花が春の風にそよぐ様は壮観である。コマクサも同様に、六合中学校の生徒の手によってガレ場に植え付けられ、大きな群落になっている。

村のあちこちで出会う六合中学の生徒達は、どこかあどけなく、この地に溶け込んだ雰囲気を湛えている。そうした村中を歩くだけでも癒される「旧六合村」である。

                                     (了)

 
              ノゾリキスゲ


           白根葵



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我が第二の故郷 嬬恋村(その6)

群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、もう25年を超えた。

私は旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。

なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。

この小文では、そうした事柄を明らかにしつつ、私が味わっている嬬恋村の諸々について皆々様に紹介して行きたい。

  1.嬬恋村事始め
 2.子供の幼稚園、そして山荘建設へ
 3.嬬恋の謂われ、そして 

4.浅間焼けの記憶

 5.嬬恋村のあれこれ

  1) クマさんのこと

  2)戦後の開拓、そして「夏キャベツ日本一」へ

  3)     貴重な観光資源「高山植物」

  4)    別荘産業

 5)    村の運営、財政など

(以上は既述)

 

6. 嬬恋村に想うこと

1) 安直・即物的な嬬恋村の現状

嬬恋村にご縁が出来て50年以上、山荘を持って25年以上が経過し、嬬恋村に「第二の故郷」というような愛着を感じているこの頃であるが、そうした感情に基づいてあらためて嬬恋村の現状を眺めてみると、どうにも残念な歯がゆい感想を持ってしまう。

ヤマトタケル伝説に基づく「嬬恋」の謂われ、日本的景観を超えた壮大ともいえる吾妻高原の豊かな自然、それらに基づいた豊富な観光資源、「夏キャベツ日本一」というような高原野菜の拡大、そして膨大な別荘に集う経済力や知識・専門性に富んだ都会人、・・・。

そうした環境から考えると「自然の豊かさと知性の両面に裏打ちされた文化の香り高い村」というイメージが表れて然りと思うのだが、実態は旧態依然たる土木建築志向の強い、即物的な展開・活動が多いありきたりな体質から一歩も抜け出ていないように見える。

観光資源として「愛妻の丘」を作り、観光客が「愛してる」などと絶叫する営みなど、いかにも安直・即物的であり、「浅さ」の典型を感じさせる。どうしてせめて「嬬恋の丘」くらいに出来なかったのだろうか。また年間の行事などを見てもマラソン大会とか花火とか、いささか底の浅いものが多いように見受けられる。

 

2) 安直・即物的な典型的事例

筆者がここで何を言いたいのか、判りやすい事例を以下に紹介しよう。

じつはこうした安直・即物的な「浅さ」の典型をごく近傍の他市の例に見ることが出来る。

隣町である長野県上田市では、観光の目玉項目を一にも二にも「真田幸村人気」に頼っている。真田一族のイメージ、あるいは上田城址についても、「真田幸村の上田城」などと喧伝している。

そもそも豊臣、徳川の二大勢力の狭間で小さいながらもたくましく特徴的に生き抜いた真田一族の事績は地域の誇りとして価値ある資産である。しかしその中心は、吾妻や上田の地を経営し上田城を築いた父親の真田昌幸であり、一族の成熟は昌幸の長子である真田信之の世代に出来ている。真田昌幸は、偉大な武田信玄の薫陶を受けた人物であることから、上田の地に置いて立派な治世を行うとともに、名城である上田城を築き、二度にわたって多勢の徳川軍を破るという快挙を成した。長子の信之は、徳川政権の外様大名への締め付けが苛烈なほど厳しくなる過程で、冷静な政治感覚によって真田家が幕末・明治まで生き残る礎を築いた。

他方の真田幸村は昌幸の次男にすぎず、名を挙げたのは「大阪冬の陣、夏の陣」における戦術的な活躍レベルにすぎない。

「立川文庫」的な豪傑への人気から「真田幸村」が名高いが、上田という地域にとって何ほどの貢献もしていない人物である。

真田家は、信之の代に幕府によって同じ信州の松代に転封され、以降の二百年、上田は他家の支配下にあったにもかかわらず、真田の存在感、真田治世への親近感が後世まで上田の市民に引き継がれたのは、ひとえに昌幸、信之時代の記憶である。

たしかに地味な存在でもある昌幸、信之よりも幸村の知名度こそが観光振興に手っ取り早いのであろう。しかしその手っ取り早さに頼って「真田幸村」を打ち出すアプローチこそ「即物的な浅さ」の典型である。たとえ時間と手間がかかっても、しっかりした大局観、ストーリーに基づいて、昌幸、信之の上田への貢献を世の中にアピールしていけば、本質的な上田の形成・発展を詠うことが出来、やがて文化性と質を伴った上田を支える観光資源となるであろう。そして観光のみならず地域の総合的な発展にも寄与していくことであろう。

 

3) 嬬恋村の在り方

嬬恋村においても、村のイメージを文化性、歴史性と質を伴った形でアピールしていくアプローチが求められる。そのためには「安直・即物的なもの」に飛びつかず、英知を絞ったじっくりした構成を目指すべきである。

例えば「愛妻の丘」を例にあげれば、せめて由緒ある「嬬恋の丘」に変えることから始めるべきではなかろうか。

さらに古今東西に存在する「妻を愛する」、「妻を偲ぶ」、「妻を称える」というような「嬬恋文学」を網羅した「嬬恋歴史文学館」を招致して、全国区レベルとなる中核施設を村内に設けることはどうだろうか。そうした中核施設とそれを支えるソフトを中心にして、「嬬恋」に関わる文化的なさまざまな活動を繰り広げるのはどうであろうか。

嬬恋村の膨大な別荘地には、知識人や文化人、経済人、専門家等がたくさん関わっておられる。そうした方々と連携を保って、村の文化性、歴史性を意識したアピールをして、質と内容の伴った活動を展開していくことを切に期待したい。

 

以上は、素人の手すさび故に正確性を欠く記述も多々あろうが、意とするところをくみ取って頂ければ望外の幸せである。

 

7. おわりに

小生は、この春に71歳になる。

高校生だった17歳のときに初めて嬬恋村を訪れ、30代後半以降に村内の友人の別荘にたびたび招かれ、40代になって自分の山荘を持ち、そして現在に至っている。

 

自宅から約200キロの地である嬬恋村へ、いつもマイカーで行き来しているが、何歳まで運転できるだろうか。いずれ新幹線で軽井沢駅まで来て駅レンタカーを借りるようになり、その次には駅前からタクシーに頼るようになり、さらにはとうとう来られなくなるであろう。致し方のないことであるが・・・。しかしいついつまでも嬬恋村へ行きたい、それほど気に入っている「第二の故郷 嬬恋村」である。
                                                   (了) 

 
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我が第二の故郷 嬬恋村  (その5)  
  


群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、もう25年以上になる。

私は旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。

なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。

この小文では、そうした事柄を明らかにしつつ、私が味わっている嬬恋村の諸々について皆々様に紹介して行きたい。

 

1.嬬恋村事始め
2.子供の幼稚園、そして山荘建設へ

3.嬬恋の謂われ、そして 

4.浅間焼けの記憶

 5.嬬恋村のあれこれ

 1) クマさんのこと

 2)戦後の開拓、そして「夏キャベツ日本一」へ

(以上は既述)

 

3)     貴重な観光資源「高山植物」

○ レンゲツツジ

嬬恋村の観光資源として名高い高山植物に湯ノ丸山のレンゲツツジと「浅間高原しゃくなげ園」のシャクナゲがある。

それらについて順に紹介していこう。

群馬県吾妻郡嬬恋村と長野県東御(とうみ)市の県境に 湯ノ丸山 という2千メートル級の穏やかな山があり、湯ノ丸高原を形成している。

その「湯の丸高原」は国の天然記念物になっている「レンゲツツジ」の名所であり、6月末から7月初旬にかけて、真っ赤なツツジの花が辺り一面を覆う様は圧巻である。

ちなみにこの辺りは牛の放牧地としても名高く、暖かい時期になると傾斜地で牛がのんびりと草をはむ姿が見られる

知る人ぞ知ることだが、牛がレンゲツツジを食べると毒として作用するそうで、牛はけっしてレンゲツツジの葉や花を食べないのだそうだ。

(牛は、どうしてそれが毒だと知るのだろうか。母親が教えるのか、それとも一度ひどい目にあって知るのだろうか。)

したがって牛が周辺の草や灌木の葉をはむことで、レンゲツツジの勢いも保たれ、一帯はレンゲツツジの大群落をなしているのだという。

 しかし、グローバル化の波はこの世界にも押し寄せ、酪農製品の自由化が行われた。それ以降、我が国の酪農業界は厳しい競争にさらされることになり、一部を除いて酪農経営が縮小しつつあるそうだ。

湯ノ丸山に放牧される牛も往年の姿は失われ、このところ十数頭が放牧されるレベルに止まっている。その結果、本来なら牛が食べてくれるはずの草や灌木が勢いを増し、レンゲツツジを押しのけるような作用が始まっているため、天然記念物を守るべく、やむなくボランティアという人様が牛の代わりをして、下草を刈っているのだそうである。

 蛇足だが、長野県下高井郡山ノ内町の奥志賀といわれる辺りにも牛の放牧地がある。志賀高原といえば、白樺の森林が美しいところだが、ここでは牛が下草をはむことによって、白樺の純林がほどよい状態に保たれ、大変に美しい景観をなしている。ここでも放牧される牛の数は往年の数には及ばないのだが、レンゲツツジとは違って白樺は喬木であるため、そこそこの調和が保たれているそうだ。

 このところレンゲツツジの見頃、はたまた白樺の新緑や黄葉の季節に当地を訪れ、自然の摂理に我が感性を委ねるとともに、社会経済のうねりをも感じながら季節の移ろいを楽しんでいる。

 

○シャクナゲ、アララギ園の献身

浅間山麓の標高千3百m~千8百mにまたがる尾根に、「浅間高原しゃくなげ園」という植物公園があり、5月下旬から6月上旬辺りにかけて15万株ものシャクナゲが咲き誇る景観はまさに圧巻である。

このしゃくなげ園が今日の姿に至るまでには、その背景にある篤志家の献身的な努力があった。

嬬恋村大笹地区で植木卸を生業にしている「アララギ園」という会社がある。その代表者の坂井さんが、絶対に不可能と言われたシャクナゲの大量栽培を試みたのはもう数十年前のことである。

シャクナゲは小さな苗のときには強い日射や乾燥に弱く、ちょっと油断すると枯れてしまう。しかし坂井さんは試行錯誤の末に確実に苗木を育てるすばらしい方式を確立した。まず松の灌木を植え、その樹間にシャクナゲの苗木を植えるのである。

シャクナゲがある程度まで成長する過程では松の枝葉が適当な日よけになって、苗木の乾燥を防ぐ。そしてある程度以上に苗木が生長したら松の木を枯らせて、シャクナゲを日の元に晒すのである。この`松の木を枯らす`にも足下付近の木の皮をくるりと剥いて栄養を絶つことによって、木を枯らすという「剥き枯らし方式」をとっている。

このようにしてシャクナゲの大量栽培に成功した坂井さんは、浅間山の山肌に成長した苗木を植え付けることに着手したが、広大な浅間山の山麓にシャクナゲを植えていく試みは、砂漠に水をまくに似て、始めの頃は周囲の村民からなかなか理解が得られなかった。しかし坂井さんが膨大な苗木を寄付するに及んで、ようやく村人の中から協力者が出始め、いわば村民公園ともいうべき今の姿に到達したのである。植物公園にはシャクナゲのみならずレンゲツツジやコマクサ、ヤナギラン、マツムシソウなどの高山植物が次々と咲いて、高原の短い夏を彩ってくれるのである。

 

4)    別荘産業

嬬恋村の人口は約9千人レベルであり、ご多分にもれず高齢化の兆しも始まっている。一方で、村の別荘数はゆうに5千棟を越えているという。

この「別荘5千棟」のもたらすものは、村にとって筆舌に尽くせぬほどに大きいといえる。

我が国において数十年来続いている過疎の村に産業を誘致する試みは、労多くしてなかなか実を結ばないのが世の常である。

工場などを誘致するには膨大なインフラ投資が必要になる上、自然破壊や公害等の弊害が伴う場合もあってすべてが万々歳ということにはならない。

そうした中で、いわゆる「別荘産業」は、村の豊かな自然をほどほど保存しながら、都会の裕福な人々を招き寄せて消費を呼び、村民にさまざまな雇用機会をもたらす。建物の建築、外構・園芸、各種設備等の需要にはじまり、ついでそれらの保守、清掃などを要し、さらには食材・食事供給、エネルギー供給などのさまざまなサービスを求められる。そして公共的には、住民税ほどではないにしても、別荘税などをもたらす。

またやってくる都会人の文化的な素養や高度な嗜好などによって、村の住民にさまざまな刺激をもたらしてもいる。例えば「インタープリーターの会」というNPO法人が村内に出来ているが、別荘地の住民がお互いの観光知識、生活知識などを持ち寄って、ボランテイアでの諸活動に勤しんでいる例がある。

また別荘をアトリエや工房にして文化・芸術創作に励んでいる住民や、定年後に永住に移行する者も多く見られるようになっており、年月の推移に応じてますます多様化の途を辿っている。

 

5)    村の運営、財政など

これまで述べてきた「夏キャベツ日本一」、豊かな自然と観光資源、そして「別荘産業」などの近況を見てくると、嬬恋村の財政は大変豊かなのではないかと想像される。

そう思って近隣の村民に聞いたところ、ひどく浮かぬ表情をして思わぬ言葉が返ってきたのだ。

曰く、いわゆる「キャベツ農家」などは「キャベツ御殿」といわれるような豪邸におさまっていたりして豊かなのだが、村の財政は大赤字なのだという。件の「平成の大合併」に際しても、村の膨大な財政赤字故に近隣の町村からそっぽを向かれたらしい。

そうした事例は、嬬恋村に限った話ではないが、嘗ての右肩上がりの時代に、国や県の補助金を当てにして、さまざまな公共投資に村の金をつぎ込んできたようだ。村議会議員の中核を地元の土木建築業者が握り、広域農道や林道等の道路設備、大字レベルの集落への小学校設置、はてはスキー場の建設などと、際限なくやってきたようである。村の南北に「パノラマライン」という国道並みの広域農道が走っており、他にも舗装された村道、林道が大量にあるが、交通需要を計って建設したとはとても思えない代物である。

近年の事柄では、特にスキー場建設が響いたようだ。建設を計画した頃には、すでに全国的にもスキーの人気が曲がり角に差し掛かっていた。それなのに着工は強行され、予想以上に出費が嵩んだ。嬬恋スキー場などでは、必ずしも安定した積雪が見込めず、それを人工降雪機で補う計画であったらしいが、相当な客数が見込めないと人工降雪機は膨大な電気代負担を消化できない。

現在の村長になって以来、村財政の立て直しのための努力が少しずつ進められているそうだが、村の苦しい財政運営は当分続くようである。

 

    (つづく)「嬬恋村に想うこと、他」




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●我が第二の故郷 嬬恋村  (その4)   

                                  

群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、

もう25年になる。

私は旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の嬬恋村での諸々

は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。

なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。

この小文では、そうした事柄を明らかにしつつ、私が味わっている嬬恋村の諸々について皆々様に紹介して

行きたい。

 

1.嬬恋村事始め

2.子供の幼稚園、そして山荘建設へ

3.嬬恋の謂われ、そして 

4.浅間焼けの記憶

          (以上は既述)

 

5.嬬恋村のあれこれ

1)              クマさんのこと

「クマさん」といっても、落語に出てくる「ハッツアン、クマさん」の話ではない。ツキノワグマの熊

にまつわることである。

嬬恋村村内をはじめとして、プリンスランド別荘地にも「熊出没、注意」という看板が、あちこちに立

てられている。

もともと嬬恋村や隣町・長野原町などの山林にはツキノワグマがたくさん生息していたようである。

今は北軽井沢と呼ばれる地域に熊川という細流が流れているが、女優・岸田今日子さんの姉である童話

作家・岸田衿子さんは永く北軽井沢の山荘に住んで著作を続けたが、北軽井沢での生活をつづった随筆に、

眼下を流れる熊川に何匹ものツキノワグマが遊ぶ風景を描いておられる。

里山が荒れることで自然界と人里の境界が怪しくなり、それにつれて熊が人里に出没するようになったと

いわれてすでに久しいが、最近の状況はやや異常である。

新幹線・軽井沢駅の南側に、プリンスホテルが経営する一大ショッピングモールが出現して以来、軽井沢

駅は従来の北口よりも南口が都会のように変貌した。週末ともなると、ショッピングモールを訪れる車列

で大渋滞が起こるのは軽井沢の定番風物となっている。

その南口で、電車通学から帰ってくる息子を迎えるために、母親が車を駐車場に置いて、今しも広場から

駅舎に掛かろうとしたとき、なんと後ろから熊に襲われたのである。結果は、軽い怪我で済んだそうだが、

白昼熊が出てきたその場所の異常さが大きな話題になった。

さてこれから述べるクマの話は、もう少し鄙の地である嬬恋村の、今から30年位昔のことである。

あるとき若い百姓夫婦が、赤子をつれて畑で農作業に勤しんでいたという。赤子は籐で編んだ籠の中に

可愛い布団にくるまれて寝かされ、畑の脇に置かれていた。

高原地帯の嬬恋村の春は遅く、畑を起こし畝を造るのは5月の初旬以降位のことであるが、その頃になると

日差しがあれば空気も暖かくなり、のどかな田園風景が展開される。

畝造りに夢中になっていた母親がつと振り向くと、なんとクマが赤子の寝ている籠をのぞき込んで臭いを

かぐような動作をしているではないか。動転した母親は、わっと叫んで駆け寄るといきなり赤子の寝ている

籠の上に覆い被さった。この経過で、もっとも驚いたのは当のクマコウであろう。逆上した母親が駆け込ん

できて、目の前に身を投げだしたのだから。思わぬ展開に興奮したクマは後ろから母親の後頭部を一撃して

去っていったそうだ。クマの一撃を受けた母親は、後々まで後頭部に大きなハゲが残ったものの命に別状は

なく、まずは無事であった。ところが、無事に済まなかったことが一つあった。

クマが現れ母親が身をもって赤子を守ったそのとき、なんと父親はいちもくさんに逃げ出したのだそうだ。

この夫婦は、嬬恋村の三原という集落で今も健在なのだが、一件以来、ことある毎に「あの人は、私と子供

を見捨ててひとり逃げたのさ」と言われ、夫は妻に頭が上がらなくなったという・・・・・。

 

2)              戦後の開拓、そして「夏キャベツ日本一」へ

○戦後の開拓民入植

嬬恋村から隣町・長野原町にかけての浅間山麓一帯には、古くから集落が営まれた鎌原、干俣、大笹などの

地域がある一方で、不毛の原野として捨て置かれた広大な地域が存在した。それらのほとんどは浅間山の

噴火に伴う火山礫に覆われており、重機のない時代には手つかずに捨て置かれていた。

しかし第二次世界大戦の敗戦の後、旧満州などの外地から引き揚げてくる同胞の中には、次男、三男の身の

上で帰る故郷もない境遇の者が多く存在した。それらの引き揚げ者は、それまで手つかずであった原野に開

拓者として入植するケースが数多く生じ、北軽井沢などの浅間山麓にも入植した。こうした戦後の入植では、

引き揚げ者のみならず地元の次男、三男が開拓に加わる例も少なからず見られたという。

旧満州における開拓村は、現地人がすでに耕作していた土地を政策的に安く買い上げて邦人を入植させたもの

であったが、敗戦後の引き揚げ者に宛がわれた土地はまさに不毛の原野であり、当初は電気も引かれていない

土地に雨露をしのぐ小屋がけをしてひたすら開拓に従事した。まずは火山礫等の石や木の根などを取り除く

ところから始めて、初収穫までには多大な時間を要した。また水利もままならぬ地域であるうえ、標高が千m

レベルであり、耕作は5月から10月までに限られた。かつ作付けできる作物も寒冷地向きのものに限られた

ため、この地で生活安定を得るまでには数十年の多大な年月を要した。

 

○「夏キャベツ日本一」への道程

今でこそ「夏キャベツ日本一」という実績を誇る嬬恋村であるが、ここまで来るまでの道筋は容易ではなかった。

高原地帯であり、寒冷地帯である浅間高原で耕作可能な作物を模索する過程で、キャベツをという試みはかなり

早い段階から検討されたようである。しかし当初は、市場までの流通手段が整っておらず、出荷がままならなか

った。

収穫したキャベツを木枠の箱状に入れて、当初は鉄道の貨物便、いわゆる「チッキ」で出荷した。貨物は操車場

で日を要し、何日後に市場に届くのか定かでなく、キャベツはむなしく鮮度が落ちてしまった。東京都の革新知事

であった美濃部知事が物価高騰に対処するため嬬恋村のキャベツを都民にというアプローチもあったが、いまだ

流通等のインフラがなんとも整っていなかった。

その後、高速道路の建設、広域農道の設置などに伴い、長距離トラック便が産地から市場まで直行するようになり、

加えて専用段ボール箱の登場を得て、徐々にスムースな出荷が出来るようになるのだが、それでも豊作と価格下落

のジレンマに苦しみ、価格暴落時にはせっかくのキャベツを畑に鋤き込むというような悲しい出来事も少なからず

生じた。その頃は、「3年に一度順調に儲かれば良とする」というような不安定な経営状況が続いた。

しかし東京市場と大阪市場の市況をリアルタイムに確認して出荷先を選ぶとか、冷蔵倉庫を建設して出荷調整を

可能にするとか、さまざまな努力が実を結んで、今の「夏キャベツ日本一」にまで到達したのであった。今は

「3年に一度」ではなく毎年安定的に儲かるので、昔のように冬季に出稼ぎに出る農家もなくなり「キャベツ御殿」

と言われるような豪邸もそこここに出来ているこのごろである。

一方で、あまりにキャベツの割がよいためキャベツにしがみつく結果を招き、年々キャベツが固くなるなどの連作

障害が悩みに種になっているようだが、現在はいまだ模索中のようである。

 

3)   シャクナゲ、アララギ園の献身

4)    別荘産業          

                   (つづく)



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我が第二の故郷 嬬恋村  (その3)
                                  

 群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、まもなく25年になる。

私は旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。

 なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。この小文では、そうした事柄を明らかにしつつ、私が味わっている嬬恋村の諸々について皆々様に紹介して行きたい

 1.嬬恋村事始め

 2.子供の幼稚園、そして山荘建設へ

 3.嬬恋の謂われ、そして 

               (以上は既述)
4.浅間焼けの記憶
1)別荘地は溶岩台地の上

 我が家の山荘があるプリンスランド別荘地は、浅間山の火口から8キロほど北に下った標高1,100m辺りにあるが、地表は浅間山噴火に伴って流れた溶岩の岩盤に覆われている。スコップなどで穴を掘ろうとしても、10センチも掘らないうちにガチンと岩に突き当たりおそらくツルハシでも容易に掘れない堅さである。したがって樹木も根を深く伸ばすことが出来ず、平たい丸皿のように水平方向に張っているため、大風が吹くと丸皿状の根ごとドウと倒れてしまう。

当初、我が敷地内の中央に溶岩が固まって出来たと思われる高さ4mほど2030坪位の巨岩が鎮座していた。そのままでは建築に差しつかえるので、地上に露出している岩裾の半分ほどを重機で欠いてもらい、その上に基礎になるコンクリートの柱を立てて、建物を乗せたのだが、それでも二階建建物の東側の窓にひび割れ苔むした巨岩が迫っている。

こうした溶岩による巨岩は別荘地のそこここにあるのだが、これらはかの「天明の大噴火」の置きみやげなのである。

 2)天明の大噴火

江戸時代中期に起きたこの地における大事件は浅間山の「天明の大噴火」である。

 浅間山は桜島とならぶ我が国でも屈指のエネルギーを持った活火山であり、太古の昔より幾度も大噴火をしてきたことが地層に残る爪痕に記されている。そして「天明の大噴火」は今の世に生々しくも痛ましい傷跡を伝えている。

 天明3年(1783年)4月上旬に、半世紀ぶりの浅間山の噴火があった。その後火山活動は日増しに激しくなったが、7月に入ると煙の中に稲妻のような光が混じるようになり、昼間でも火炎が昇る激しさとなった。あまりの様相に、近隣の諸大名が毎日家来に様子を見に来させていたという。また信州側の追分、沓掛(現在の中軽井沢)辺りでは知り合いを頼って老人や女子供を疎開させるありさまであった。

7月8日(新暦8月5日)、大噴火が起こり北麓の群馬県側へ水を含んだ1,200度以上の溶岩泥流が押し出し、斜面を流れ下って吾妻川やその支流に流れ込んだ。勢いづいた泥流の流れは岸の上までせりあがり、川沿いにある村々を飲み込みつつやがて利根川を前橋辺りまで流れたという。前橋、伊勢崎付近の川幅が広くなったところには、おびただしい死体や家の残骸が打ち上げられた。

この大噴火では、現在の嬬恋村、長野原町を流れる吾妻川沿いにある村落を泥流で埋め尽くし、約1200人の犠牲者を出した。くわえて噴煙は上空1万mを越えて広がり、房総の銚子あたりでも2~3寸ほどの灰が積もったと言われている。

またそうした火山塵は全国的な冷害を引き起こし、天明の大飢饉の有力な一因になった。さらに成層圏までのぼった

火山塵は偏西風に乗って世界を経巡り、欧州各地にまで飢饉をもたらした。一学説には「フランス革命の背景には浅間山の噴火が影響している」とまで言われている。

 

3)この日、鎌原村は

 浅間山の火口から北に下ったところ、プリンスランド別荘地からさらに4キロほど下った辺りに、鎌原(かんばら)という大字レベルの集落がある。

この日、鎌原村は山から3方向に押し出した泥流のうち中央の泥流に襲われた。村は火口から約12キロのところに位置しているが、ほぼ十数分で全村が泥流にのみこまれたと言われている。

この頃、多くの村人は焼け石が空から降ることを恐れ、家の中にすくんでいた。反面、土石なだれには全くの無防備だった。

その上、村は森に囲まれた窪地にあり、浅間山の見通しが決して良くなかった。村人が異様な音と地鳴りに気づいたときは、もう目の前に土石なだれが迫っていた。

人、馬、家、田畑などすべて一瞬にして押し流され、窪地の村は5mもの土石に埋め尽くされた。

鎌原村全118戸が流失、死者477人、死牛馬165頭。

小高い場所にある観音堂の石段を逃げ上った者と、たまたま村外に出ていた93人が生き残った。土石は境内に逃げた村民の足下に迫ったが、50段ある石段を15段だけ残してようやく止まったのである。真っ黒に埋め尽くされた山麓一帯は100日以上も煙が立ちのぼり、年を越してからようやく冷えたという。

無量院という寺の住職が、次のような手記を残している。

「鳴り音は静かだった。突然熱湯が一度に水勢百丈あまり、山からわき出し、六里ヶ原一面に押し出した。神社、仏閣、民家、草木すべて一押しに流し去り、吾妻川沿岸七十五ヶ村の人馬を残らず流失させた。」と。

 

4)その後の鎌原村

古今未曾有の大災害に際して、江戸幕府(行政当局:注)と近隣の有力者が役割を分担しつつ村の復興を進めた経過は大変印象深い。 
(注: 鎌原村を含む吾妻地域一帯は幕府の天領で、代官所が行政を担っていた)

鎌原村の生き残った93人は、命は助かったものの、親や妻子、家屋、田畑などすべてを一瞬に失ったため、茫然自失となり、なすすべが無かった。

そのとき、近隣の有力者である大笹村の名主、黒岩長左右衛門、干俣村の干川小兵衛ら3人の有力百姓が世話役になって、災害直後に救援活動を開始し、被災者の自宅への収容、被災地への小屋がけ、食料・諸道具の供与などを行った。

当初、幕府はあまりの惨状に被災地の放棄と村落の移転を図ろうとした。しかしながら被災村民が当該地での復興を強く望んだため、方針を変更して、冬を越すための食料代を渡すことから着手し、次いで幕府が工事費を負担する御救普請を開始し、田畑と道路の再開発を進め、田畑は生存者に均等配分された。

当時は、同じ百姓身分の中においても家筋とか、素性といったことに大変こだわる風習があった。3人の世話役はこうした点に配慮して、「このような大災害に遭っても生き残った93人は、互いに血のつながった一族だと思わなければいけない」と説諭し、生存者達に親族の誓いをさせ、家筋や素性の差を取り払うことから始めた。その後、追々家屋も再建されたので、世話役3人は、93人の中で夫を亡くした妻と妻を亡くした夫を再婚させ、また子を亡くした老人と親を亡くした子を養子縁組させるなど、実際に一族としてまとめなおした。こうした家族の再構成は、江戸時代を通じて見ても異例のことであった。

このような幕府と地域有力者との連携による救援活動、非常時における有力百姓の臨機の知恵の行動は、今の世から見ても大変感動的である。

 
5.嬬恋村のあれこれ 

         (その4)につづく



   写真説明
   ・鎌原観音      ・浅間焼遺跡説明
   ・軒先まで迫る溶岩  ・浅間山



 
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我が第二の故郷 嬬恋村 (その2)

 

(前回の概要)                  (2012年12月27日 配信)

群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやか

な山荘を建てて、間もなく25年になる。

私は旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の

嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。

 

なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるよう

に思われる。

この小文では、そうした事柄を明らかにしつつ、私が味わっている嬬恋村の諸々について

皆々様に紹介して行きたい。

1.嬬恋村事始め

2.子供の幼稚園、そして山荘建設へ

 

 (ここから今回) 

3.嬬恋の謂われ、そして 

1)ヤマトタケル伝説

さて「つまごい」というと 静岡県にある「つまごい」が野外音楽ライブのメッカとして

全国的に有名であるため、その「つまごい」と間違われる方が多いかと思われる。

それに比べて群馬県吾妻の「嬬恋」は夏キャベツの一大産地としては名高いが、いま一つ

ローカルな感じがする。ではここで「嬬恋の謂われ」について紹介しておこう。

その昔、第十二代景行天皇の皇子、かの日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途、暴風を

鎮めんがために相模灘に身を投ぜられた今は亡き弟橘媛(おとたちばなひめ)を追慕され、

「吾嬬はや」と嘆かれたのが、上州(吾妻郡嬬恋村の西端)と信州(上田市真田の東端)

の国境「鳥居峠」であり、まさに「嬬恋村」の事始めになったと言われている。

一説によると、その地点は30キロほど東に位置する碓氷峠であるとも言われているが、

この峠は昔「碓日嶺(うすいみね)」といわれていたのが鳥居峠となったことからして、

それは鳥居峠であったということにしておきたい。

嬬恋村ではこの謂われに因んで、「愛妻の丘」というものを企画し、丘の上で男性が絶叫

する場面がテレビなどでも紹介されたのでご存じの方もおられよう。その丘は日本百名山

のひとつである四阿山(あずまやさん)の山麓にあって、吾妻川の谷を挟んで浅間山系を

遠望する景観がまさに雄大である。

 

2)真田太平記の世界

 前述の鳥居峠を挟む信州小県(ちいさがた)と、上州吾妻を舞台にした長編歴史小説に

池波正太郎による「真田太平記」がある。この小説は昭和49年の始めから昭和57年末

まで449回の永きに亘って「週刊朝日」に連載された。武田信玄に仕えた有力武将である

真田昌幸、その子の真田信之、幸村等の真田一族が豊臣秀吉と徳川家康という二大勢力の間

にあって、信州の小さな領国を守りつつ強かに生き抜いていく壮大なドラマが物語られる。

一族の本拠は信州小県(ちいさがた)の真田(現在は上田市真田)だが、真田一族の勢力圏

は上州の西半分にまで及んでいた。したがって真田の人達は国境の鳥居峠から嬬恋村、中之

条町(ここに岩櫃(いわびつ)城という重要拠点があった)を経由し、利根川上流の沼田辺り

までを領有していたのである。

真田太平記にはハードな歴史小説という表舞台に加えて「真田の草の者」という諜報忍者集団

が登場して波瀾万丈の色を添えてくれる。かの立川文庫の「真田十勇士」に登場する猿飛佐助

などは「草の者」が原型であり、彼らの修練の地は、鳥居峠から吾妻地域に至る広大な高原地

帯であったと言われている。実際に吾妻の雄大な高原地帯に立ってみると、その辺りで生活し

ていた山の民達が厳しい自然環境を生き抜く上で情報に聡く、足腰強く俊敏で、かつ薬草・

火薬などの知識が豊かにあって、いわゆる「草の者」に適していたであろうことが容易に想像

される。

 

3)鳥居峠

 私は前述の二つの挿話に共通して登場する「鳥居峠」の景観がことのほか好きである。

四阿山から西南方向にかけて広がる稜線と、湯ノ丸山から角間峠を経て北東方向にかけて広がる

稜線がワインカーブを描いてお互いに交わる辺りに鳥居峠が存在する。その両翼が形作るゆるや

かな広がりは大変美しく、また優しく、心を豊かにする景観である。

 鳥居峠は標高約1360メートルであるが、嬬恋村の東の方角から峠にかけての街道はトンネル

や切り通しもなく、最後の集落である田代(たしろ)からほぼ一直線に西行して登ると峠に達する。

東から来れば関東から信州への国境であり、西からやって来れば関東への入り口である。太古の昔

にも、そして近世においても東西を行き来する人々の悲喜こもごもを積み重ね、また東西文化の

往来を育んだ由緒ある峠である。

ちなみに田代という集落について皆さまはお聞きお覚えはないだろうか。

気象情報が季節の変わり目に触れる際に「今朝、群馬県嬬恋村の田代では初霜がおりました」という

ような形で紹介される。すなわち標高12百メートルほどの田代集落は、関東地方の中でもっとも

冬の訪れが早い人里なのであろう。
(つづく)

 

写真説明:

          浅間山遠望     (キャベツ畑から)

          鳥居峠遠望     (中央の鞍部が鳥居峠) 

          鳥居峠

          鳥居峠由来

          嬬恋村の新名所「愛妻の丘」

 







                         

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我が第二の故郷 嬬恋村 (投稿者:戸田冬樹さん)

                                     

群馬県吾妻(あがつま)郡 嬬恋村(つまごい)のプリンスランドという別荘地にささやかな山荘を建てて、間もなく25年になる。私は旧満州地域からの引き揚げ者で、いわゆる故郷を持たない身であるため、この25年間の嬬恋村での諸々は「第二の故郷での営み」ともいうべき大事なものになってきた。 なぜそれが嬬恋村だったのか、それにはいくつかの運命的な出会いと偶然が絡んでいるように思われる。この小文では、そうした事柄を明らかにしつつ、私が味わっている嬬恋村の諸々について皆々様に紹介して行きたい。

 1.嬬恋村事始め

 高校2年生の時(昭和35年)だったか夏休みを前にして級友からの誘いがあった。曰く、自分の実家であり、父が働いている嬬恋村三原(みはら)に遊びに来ないか、と。その有難い言葉に甘えて、他の友人も含めた数人で、彼の実家に数日逗留させてもらった。

上野駅から上越線に乗って高崎を経由し、渋川から吾妻線に乗り換えて、上州三原駅(現在は万座鹿沢駅)に至るのだが、恐ろしく時間がかかったことが記憶に残っている。好天に恵まれ、標高2千メートル級の湯ノ丸山(右写真)へ登山ハイキングをしたり、手作りのトンカツに高原キャベツを山盛りにして頂いたり、快適な高原ライフを味わうことが出来た。

その友人は栃原(とちはら)といい、父君が嬬恋村で村医者をされていたのだが、その時父君にお会いしたかどうか、記憶が定かでない。お手伝いさんのような地元の女性が我々の面倒を見てくれたことを覚えているのみである。ちなみに栃原君の父君は、戦時中 東京新宿の百人町で開業されていたのだが、戦火に焼け出されて閉院の憂き目を見た。そこへ郷里の嬬恋村から、無医村状態の村で医療に従事して欲しいと懇請され、終戦直前の昭和20年に村に帰って開業されたのだそうである。
栃原先生は、地域の医療に終身献身的に尽くされたのみならず、体育が青少年育成に大変重要であると考えられて、吾妻地域に体育委員会を創設し、自らその責任者になって晩年まで熱心に尽くされたそうである。栃原先生が半生を捧げられた診療所は、いまも「嬬恋村診療所」として継続しているが、その敷地の中に先生の胸像が建っており(右写真)、村の人々が先生の業績を称えている碑文が残されている。

つかの間の旅から帰京すると間もなく大変な受験地獄に巻き込まれ、いつしか高原の想い出も忘却の彼方ということになってしまったが、それから約20年の時間を挟んで再び嬬恋村にご縁が生まれた。



2.子供の幼稚園、そして山荘建設へ

 私は昭和44年に所帯を持ち、翌年に一人娘を授かった。始めは横浜市日吉のアパート、次いで東京都狛江市の分譲集合住宅で暮らしたが、やがて娘が幼稚園に上がる日を迎えた。家内がカソリックであったことから、娘は世田谷区喜多見のミッション系幼稚園に通うこととなった。

あるとき父兄参観日があったが、同級生の父兄の中に私と同じ勤務先の人がいて紹介された。このご家族とは、その後ずっと家族ぐるみのお付き合いをすることとなるのだが、その事始めが「嬬恋村の別荘に一緒に行かないか」という件だった。その知人の叔父夫妻が早い時期から嬬恋村に別荘を持っており、同行へのお誘いを頂いた。そこは浅間山北麓の標高1100メートル地帯にある「大蔵屋プリンスランド」という別荘地で、東京の目黒区ほどの面積に約4、5千区画を擁し、18ホールのゴルフコースやテニスコート、児童遊園地などを併せ持って、地域設計もなかなかしゃれた所だった。(右写真はプリンスランド管理センター)

当時、私は車を持たないペーパードライバーだったので、その知人が小型普通車に二家族を乗せていってくれたのだが、結果として大人4人、幼稚園児2人、幼児一人の計7人が同乗することとなり、つまり交通違反状態で走行する旅となった。当初は関越自動車道もなく、国道や県道をひた走る道中で、嬬恋村まで約200キロの行程に約7時間位かかったことを覚えている。運転される方もさぞ気を遣い、疲れたことだろう。

それから夏には毎年お声をかけて頂き、吾妻高原での快適な別荘ライフを味あわせてもらう有り難い年が何年も続いた。しかし子供は年々成長するし、3人の子供は男女の構成であり、小型自動車に7人乗りする異常な形もすでに限界点に近づきつつあった。私も40歳を過ぎて、多少のゆとりも出来る頃となったので、それまでの訪問経験で気に入っていた嬬恋村プリンスランドに自分も山荘を持とうという一大決心をする運びとなったのである。

この前後、父親が旅行先の山の温泉場で岩から転落し、脳挫傷のため寝たきりの療養生活となった。老人医療施設での療養で、直接の介護をしたわけではないものの、意識のない病人を5年近く抱え、看取るという悲しい経過があった。長期間であったため、家内にも多大な負担を強いる結果となり、そうした諸々のストレスを緩和する一方策として、自分の山荘を持ったという意味合いも含まれていた。平成元年のことであった。 (つづく)

写真左・浅間山系、右・湯ノ丸山のレンゲツツジ(天然記念物)












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(宮崎弘徳さんからの質問)
 友人の栃原さんとはその後もお付き合いしていらっしゃるのですか?

(戸田冬樹さんからの回答)
 栃原さんとは進学先も違い、その後接点がないまま経過しております。当方も消息を知りたいと思いながら拙文を書いた次第です。


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