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庚申塔を歩く

目次

第一回 歩く楽しみ

第二回 歩く楽しみ(その2)

第三回 「庚申」とは

第四回 「庚申信仰」とは」

第五回 庚申信仰の広まり

第六回 江戸以前の庚申塔

第七回 巣鴨の庚申塚


第八回 江戸開幕府前後の庚申塔

第九回 山王二十一社と庚申塔

第十回 寛永年間の庚申塔



田丸宏さんへのメールはこちら

●庚申塔を歩く 第十回 「寛永年間の庚申塔」 田丸 宏

前回は寛永年間(16241644)建立の庚申塔を2基紹介しましたが、今回はさらに6基を紹介します。先づは足立区栗原の“猿佛塚”にある寛永6年(1629)に建てられた板碑形で、Ωの上部に地蔵菩薩を表す梵字一文字と、日月が彫られています。主銘には「奉待庚申十六佛成就供養所」とありますが、この“十六佛”については難しいので省略します。

 

文京区根津の根津神社には6基の庚申塔が背中合わせにコンクリートで固められています。この中で最も古いのが寛永9年(1632)に建てられた同じく板碑形で、主銘は「奉造立庚申供養一結衆二世成就攸」とあります。「攸」は「所」と同じ意味です。建立年月日は“寛永九年壬申初春廿二日”と記されており、これは庚申の日にあたります。

 

品川区西五反田の徳蔵寺は山手線の目黒→五反田間の右手車窓に見える寺院です。ここには5基の庚申塔が並んでいますが、その中で最も大きな板碑形のものが寛永12年(1635)に建てられたもので、主銘は「奉起立石塔庚申供養二世安樂祈所」というものです。この塔には“當願衆”として江戸竹河町(現在の銀座七丁目)の寄進者の名前が彫られていますが、それは武士、商人、修験者など多様な人々で構成されています。

 

横須賀市公郷町の路傍にも同じ寛永12年(1635)に建てられた板碑形のものがありますが、主銘には「帰命山王庚申大権現」とあり前回紹介した山王二十一社の系統のものです。

 

豊島区駒込の妙義神社には寛永19年(1642)に建てられた、「奉造建庚申供養之佛塔也爲現世安穏後生前生也」という長い銘の彫られた板碑形庚申塔があります。

 

川口市戸塚の西光院にあるのは寛永20年(1643)に建てられた板碑形で、山王二十一社の種子に「奉庚申待供養」と添え書きされています。その下部には板碑形によく見られる蓮の花があり、さらにその両側に燭台と花立が彫られています。これは江戸時代以前の板碑に見られた三具足(燭台と花立に香炉を足したもの)の名残りと考えられます。建立年月日は“寛永二十未年三月廿六日”と記されており、これも庚申の日にあたります。

 

猿佛塚:足立区栗原 1-4 最寄駅は西新井

根津神社:文京区根津 1-28 最寄駅は根津

徳蔵寺[天台宗]:品川区西五反田 3-5 最寄駅は五反田

公郷町路傍:横須賀市公郷町 3-5 最寄駅は衣笠

妙義神社:豊島区駒込 3-16 最寄駅は駒込

西光院[真言宗豊山派]:川口市戸塚 2-6 最寄駅は東川口       田 丸   宏


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●庚申塔を歩く 第九回 「山王二十一社と庚申塔」   田丸 宏
 

江戸時代も寛文年間(16611673)になると、庚申信仰専属の佛さま(?)として青面金剛(しょうめんこんごう)が登場します。しかしそれまでは、すでに紹介したように阿弥陀如来などの姿を借りた庚申塔が建てられました。そのようなものの一つとして、寛永年間(16241644)以降には『山王二十一社』の名前を借りた庚申塔がてられました。

山王信仰の総本社は滋賀県大津市坂本にある日吉神社(【ひえじんじゃ】と訓みます)で、比叡山(これも【ひえ】への宛字です)の麓にあります。日吉神社のもともとの祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(おおものぬしのかみ)だったのですが、そのうち『山王七社』(上七社という)へ、さらに中七社、下七社を加えて『山王二十一社』へと威容を拡大しました。庚申信仰と『山王二十一社』の関係については、おそらく山王の神使(神のつかい)が猿であることに因るといわれています。

東京では溜池にある日枝神社がその系統で、最寄駅は地下鉄の溜池山王駅です。また日枝神社の鳥居は、普通の鳥居の上に三角形が乗るという独特な形をしています。

(板碑を除いて)最初に『山王二十一社』が採り入れられた庚申塔は松戸市幸谷の幸谷観音にある寛永2年(1625)に建てられたもので、「奉南無山王廿一社庚申爲現世安穏後生善處也」という銘が彫られています。

赤羽の宝幢院にある寛永16年(1639)に建てられたものには二匹の猿が阿弥陀如来を拝むようすが描かれており、「山王廿一社」との文字が添えられています。どこにも「庚申」の文字はないものの、これも庚申塔の一つとして認められています。

青戸の延命寺にある承応4年(1655)に建てられたものには『山王二十一社』が21文字の種子(しゅじ)として彫られており、さらに「青面金剛彭倨尸彭質尸彭矯尸垂迹」という銘がついています。種子とは一文字で佛さまの名前を示す梵字(悉曇(しったん)文字とも)です。また「彭倨(碑では糸偏)尸」、「彭質(碑では竹冠)尸」、「彭矯尸」は三尸の本名で、青面金剛はその垂迹(姿を変えて現れたもの)だとしています。

幸谷観音:松戸市幸谷 182 (最寄駅は新松戸)

宝幢院:北区赤羽 3-4 (最寄駅は赤羽)

延命寺:葛飾区青戸 8-24 (最寄駅は亀有、または青砥)

田 丸   宏

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●<庚申塔を歩く>-第八回-「江戸開幕前後の庚申塔:二例」
                                     田丸 宏

前回は巣鴨・庚申塚(とその近く)の明暦年間(1655~)の庚申塔について述べましたが、時代を遡って江戸時代より前の板碑をもう一基紹介しましょう。それは千葉県の旧沼南町(現在は柏市)にある通称“お勢至さま”と呼ばれる庚申塔で、天文4年(1535)の建立です。この庚申塔も緑泥片岩でできているのですが、深い森の中にあるためか非常に状態良く保たれています。主尊は(なぜか勢至菩薩ではなく)釈迦如来で、天蓋の下に大きい種字(佛名を表わす一文字の梵字)が刻まれています。またその下には三具足(左から花立、香炉、燭台)が、さらに下には「奉庚申待供養」の文字が彫られています。寄進者としては二郎四郎(これで一人分)など、苗字のない5人の名前が刻まれています。

この庚申塔は柏市立手賀西小学校のすぐ南の小高い丘の中にあり、柏駅東口から布瀬行のバス(本数が少ないので要注意)に乗って泉入口というバス停で降りると便利です。なお柏駅西口からは布施行というバスもあるのでお間違いなきよう。

ではいよいよ江戸時代に入ります。

足立区の北、花畑に鷲王山正覺院という真言宗豊山派の寺院があります。ここには元和9年(1623)に建立された、板碑を除くと東京で見られる最古の庚申塔があります。江戸時代に入ると石材として安山岩が使われるようになり、緑泥片岩に較べて丈夫さ、磨耗のし難さは格段にアップしました。一方佛像や銘の配置が板碑の形式を踏襲しているところから、板碑形と呼ばれています。全体は将棋の駒のような形をしていますが、特徴は上部にあるΩ形の境界線がその上の三角形部分とその下の長方形部分(こちらが本体)に分けていることでしょう。

この塔の主尊は前回高岩寺所在の塔として紹介したものと同じ弥陀三尊で、光背(後光)はやはり線刻で美しく彫られています。主銘は弥陀三尊の下に「奉待庚申供養成就所」とあり、両脇に「現世安穏」、「後性善生」と記されています。この「現世安穏」、「後性善生」とは、法華経薬草喩品の一節、「現世安穏後世善處」からとったフレーズであります。また建立日として「元和玖关亥年二月十二日」[玖=九、关=癸]とありますが、残念ながらこの日は庚申日ではありません。塔を建てた寄進者としては「武刕花又村」の4人の名前が記されています。

正覺院:足立区花畑 3-24

田 丸   宏

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●<庚申塔を歩く>―第七回―「巣鴨の庚申塚」      田丸 宏

前回、せっかく巣鴨の高岩寺(とげぬき地蔵)まで来たのですから、もう少し足を延ばして“庚申塚”を訪れてみましょう。巣鴨の駅から高岩寺へ通ずる道は昔の中山道で、さらに進むと都電の踏切に出ます。ここには都電の“庚申塚”停留所があります。

「江戸名所圖繪」の『巣鴨庚申塚』をみると街道沿いに並ぶ茶屋の背後に小高い塚があり、そこに大小二基の石塔が描かれています。このように“庚申塔”は塚を築いてそこに乗せられることがよくあったところから、このような塚のことを“庚申塚”と呼ぶようになりました。大きい方は何か文字が彫られているように、小さい方は何かの佛像が彫られているように、それぞれ見えます。

現在の『巣鴨庚申塚』には次のような解説板が立っています。
①昔々、ここには文亀2年(1502)に建てられた庚申塔がありました。
②明暦3年(1657)の振袖火事の後、その復興資材である竹木を庚申塔に立てかけたところ、庚申塔は四つ、ないし五つに割れてしまいました。
③その年のうちに新しい庚申塔が建立されましたが、これが「江戸名所圖繪」に描かれているものであります。
④この庚申塔は、現在は本殿の中に安置されています。[拝観はできません]

文亀2年の庚申塔はおそらく前回ご紹介した『板碑』、すなわち“緑泥片岩”という薄い板状のものだったと思われ、竹木などを立てかければひとたまりもなく割れてしまっても不思議ではありません。では現在本殿に安置されているという明暦3年製の庚申塔とはどんなものなのでしょうか。

すぐ近くの大日堂にはその一年前の明暦2年(1656)に建てられた庚申塔があり、庚申塔の権威によれば巣鴨庚申塚のものもこれに似ているということです。すなわち大日如来を表わす種子(梵字)に、「奉造立石塔一基庚申現當二世攸」という主銘が彫られているといいます。とすれば、「江戸名所圖繪」に描かれている石塔のうち大きい方がおそらくそれにあたるのでしょう。そして小さい方は後世ブームとなる『青面金剛』の像らしきように見えるので、庚申塔だとしても明暦時代よりは後世のものでしょう。

大日堂は豊島区西巣鴨2-15にあります。
「現當」とは現在と未来の二世、これに過去を足すと「三世(さんぜ)」になります。

田 丸   宏 

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<庚申塔を歩く>―第六回―「江戸以前の庚申塔」   田丸 宏

いよいよ“庚申塔を歩”きに出掛けましょう。歩き方については人それぞれ流儀があるでしょうが、ここでは古いものから時代順ということで話を進めていきたいと思います。一回にいくつかの庚申塔を紹介しますので、興味のある方は是非自分の目で確認していただきたいと思います。

 

江戸時代以前の石碑としては『板碑』というものが多く残されていますが、その中に数は非常に少ないのですが庚申塔として建てられたものがあります。現在われわれが見ることができる最も古いものは、足立区立郷土博物館に保存されている文明15年(1483)建立のものです。これも『板碑』特有の文字通り緑色をした“緑泥片岩”という石材で造られています。主尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩)で、それぞれ種子(梵字)で表わされています。これがなぜ庚申塔かというと、その種子の下に「奉庚申待供養結衆」と記されていることによります。「結衆」とは「講一同」ぐらいの意味と思われます。

 

なお、この塔の建立年月日は「文明十五年癸卯十月十五日」と記されていますが、この15日(満月の日です)は阿弥陀如来の縁日であります。「縁日」というといまでは神社の方が賑わっているようですが、この言葉はもともと仏教から出たものといわれています。

 

次に古い『板碑』の庚申塔は練馬区立石神井郷土資料室で見ることができました(現在は下記の石神井公園ふるさと文化館で見られると思います)。これも同じ緑泥片岩製で、長享2年(1488)の建立です。主尊には文殊菩薩の種子が刻まれており、その下に「奉申待供養結衆」の銘があります。

 

さらに大永8年(1528)建立のものが、とげぬき地蔵で有名な巣鴨の高岩寺にあります。建物の一画に外から観察できるようにと置かれているのですが、前に屋台があるためにじっくりと見ることは困難です。主尊は阿弥陀三尊の像形で、線刻で彫られている美しいものです。毎月24日の地蔵菩薩の縁日に巣鴨を訪れるご同輩も多いのではないかと思いますが、訪れた折にはちょっと探してみてはいかがでしょうか。本堂に向かって左手の建物にあります。

 

足立区立郷土博物館 : 足立区大和田 5-20-1

練馬区立石神井公園ふるさと文化館 : 練馬区石神井町 5-12-16

萬頂山高岩寺(曹洞宗) : 豊島区巣鴨 3-35-2

 

田 丸   宏


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<庚申塔を歩く>―第五回―「庚申信仰の広まり」      田丸 宏

 

前回紹介した庚申信仰は、中国の道教に説かれている“三尸説”がもとになっています。道教自体は日本ではあまり流行りませんでしたが、その一部である庚申信仰はなぜか明治時代に入るまで息長く根付いていたようです。蛇足ですが、“陰陽五行説”も道教の産物ですが、その流れを汲む“風水”はいまでも盛んなようですね。

 

“守庚申(しゅこうしん)”(“庚申待”の古い言い方)が初めて登場するのは円仁(慈覚大師)の著書で、九世紀前半のこととして記されています。平安時代には宮廷貴族の間で“詩歌管弦碁双六”などで夜を明かす催しが行われていたということが『源氏物語』に、また鎌倉時代になると武家社会にも浸透するようになったことが『吾妻鏡』に、それぞれ記されているようです。

 

庚申信仰が庶民の間に広まったのは、室町時代の終期から江戸時代にかけてであります。60日毎の庚申の日には、廻り持ちの当番の家へ夕方から集まり、先づは庚申の神を描いた掛軸に供物などを捧げ、念仏を唱えてから酒席となったようであります(下線部分は推測)

 

このような集団のことを“庚申講”と呼び、江戸時代の村ごとに一つ、ないしはいくつかの講が持たれたようです。明治224月に全国規模の町村合併が行われ、それまでの江戸時代の“町村”がそれぞれいくつか合併して今の“市町村”の原型ができあがりました。この時には71314の町村が合併して15859の市町村になったといいますから、およそ45の町村が一つの市町村に合併されたことになります。従って江戸時代の“村”という単位は、今でいう“大字”ないしは“字”ぐらいの規模だったようです。

 

松尾芭蕉が深川の採荼庵から『奥の細道』に出発したのは元禄2327日、そして旅の終わりとなる大垣に到着したのが(遅くとも)821日であったといいます。この間には525日、726日の2回の庚申の日がありました。『奥の細道』本文にはもちろん何の記載もありませんが、随行した曾良の『曾良旅日記』には2回ともその記述がみられます。

 

1回目の525日には尾花沢に滞在していたのですが、「夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。」とあります。秋調は尾花沢の俳人仲間の一人ですが、「被招」という言葉に大分賑やかだった様子が偲べます。2回目の726日には小松に滞在していたのですが、この時は「夜ニ入テ、俳五十句。終テ帰ル。庚申也。」とだけ記しています。この記事からも、当時“庚申待”は一般の庶民に広く認知されていたということが分かるのではないでしょうか。

 

田 丸   宏


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●<庚申塔を歩く>―第四回―「庚申信仰とは?      田丸 宏

 

 庚申塔のもとになっているのは“庚申信仰”です。これは次のようなものです。

 

庚申の日の夜に眠ると、人間の身体の中に住んでいる三尸(さんし)という三匹の虫がその人の身体から抜け出し、天にいる神にその人の悪業を報告する。すると天の神はその悪い度合いに応じ、その人の寿命を短くする。従って庚申の日の夜は寝ずに明かし、三尸が身体から出るのを防がなくてはいけない。

 

三尸にはちゃんと名前がついています。“彭倨(ほうきょ)”は人間の頭に、“彭質(ほうしつ)”は腹に、“彭矯(ほうきょう)”は足に、それぞれ住んでいるといわれています。もっとも『三尸九虫』という説もあり、実際に何匹いるのかは分りません。

 

また三尸が天に昇って報告をするという神は、一般的には帝釈天であるとされています。帝釈天といえば、柴又の帝釈天、正しくは經榮山題經寺(日蓮宗)が有名です。ここではいまでも庚申の日には参拝に訪れる老若男女で賑わっているようですが、なぜか境内では一基の庚申塔も見ることはできません。

 

江戸時代になると庶民の間でも『庚申講』という講を組み、60日毎の庚申の日に集って(庚申待という)夜を徹して飲んでいたようであります(下線部分は推測)。そして【庚申待を18回続けたら、その記念に石碑を建てること】という決まりもあったようで、これによっていまでも日本全国、津々浦々で「庚申塔」を見ることができるというわけです。

 

なお庚申の日は60日毎にきますから、一年には6回(5回、7回の年もある)、18回続けるとほぼ3年となります。

 

日暮里駅の西側、谷中霊園の一劃に護國山天王寺という天台宗のお寺があり、ここには10基の庚申塔があります。そのうちの一基には、『三守庚申三尸伏 七守庚申三尸滅』という銘が彫られています。すなわち三回(続けて)庚申待をすれば三尸は屈伏し、七回庚申待をすれば三尸は滅亡する、というわけです。この庚申塔には建てられた日として、『寛文三癸卯年十二月廿六日』と記されています。寛文3年は1663年、そしてこの1226日はもちろん庚申の日にあたります。

 

次回はこの“庚申信仰”がどこから、いつ広まっていったのかを紹介したいと思います。

 

田 丸   宏

(宮崎さんからの質問)
 「庚申待」は何と読むのでしょうか?

(田丸さんからの回答)
「こうしんまち」でいいと思います。改めて尋ねられると何となく不安になりますが・・・ 


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<庚申塔を歩く>―第三回―「“庚申”とは」      田丸 宏

 

今日からはいよいよ庚申塔の話です。先づは“庚申”とは何か?

 

中国では、万物は五行、すなわち木・火・土・金・水から生ずるとされています。これに日・月を加えれば七曜となります。また五行相生といって、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じるといいます。さらには五行相剋といって、木は土に剋[か]ち、土は水に剋ち、水は火に剋ち、火は金に剋ち、金は木に剋つともいいます。

 

この五行はそれぞれが二人兄弟で、すなわち兄と弟がおります。兄の名は『え』、弟の名は『と』、兄弟あわせて『えと』ということになります。たとえば木の兄は『きのえ』で【甲】の字を、木の弟は『きのと』で【乙】の字を宛てます。以下、『ひのえ』=【丙】、『ひのと』=【丁】、『つちのえ』=【戊】、『つちのと』=【己】、『かのえ』=【庚】、『かのと』=【辛】、『みずのえ』=【壬】、『みずのと』=【癸】となります。これらを「十干」と呼びます。

 

この十干におなじみの十二支(子丑寅卯辰巳午未酉戌亥)を組み合わせたものが今日でいう「えと」(普通は「干支」の字を宛てる)で、年賀状に思い出したように書かれているのを見掛けます。もっともほとんどが十二支の方だけですが...

 

干支は「甲子(きのえね)」、「乙丑(きのとうし)」、「丙寅(ひのえとら)」、「丁卯(ひのとう)」と進み、1012の最小公倍数(懐かしいですね!)である60の組み合わせとなります。戸山36年会の皆様は昭和17年、あるいは昭和18年生まれですが、これは「壬午(みずのえうま)」と「癸未(みずのとひつじ)」に当ります。そこで壬午年に当る平成14年、あるいは癸未年にあたる平成15年の元日に還暦[干支が一巡して戻ってきたこと]を迎えられたことと思います。この節は満60歳の誕生日に還暦のお祝いをすることもあるようですが、本来は数え61歳になった時、すなわち元日にお祝いをするものであります。

 

春夏選抜高校野球の行われる甲子園、ここがオープンしたのは大正13年、「甲子(きのえね)」の年です。ではキノエネ醤油は?こちらの創業は天保元年とのことなので「庚寅(かのえとら)」の年、第一番目に商品化したからという命名のようです。他にも歴史で習った「壬申の乱」、「戊辰戦争」、「辛亥革命」など、干支を冠した出来事がありましたね。

 

次回は庚申塔の由来についてお話したいと思います。では...

 

田 丸   宏


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●庚申塔を歩く ー第二回ー 「歩く楽しみ その2」      田丸 宏

 江戸時代の流行[はやり]で一つ紹介するのを忘れていました。「お伊勢参り」です。これも本来は「伊勢講」なるものを組んで旅費を積み立て、代表者が参拝(代参という)に行くというものですが、多くの若者や使用人が、両親や主人に無断で抜け出して伊勢神宮に向かうことが流行しました。『おかげでさ するりとな 抜けたとさ』と歌い、踊りながら道中することから、「御蔭参り」、「抜参り」などともいわれました。

 

江戸時代に入り、初めて大勢の人が伊勢神宮に向かったのは元和元年(1615)のことで、その後慶安3年(1650)にも流行りました。それから55年経った宝永2年(1705)には、閏4月から5月にかけての50日間に362万人が伊勢神宮に向かったという記録があります(本居宣長著「玉勝間」)。そして明和8年(1771)に270万人、文政13年(1830)に486万人と、約60年毎に大きなブームを巻き起こしました。

 

松尾芭蕉も「奥の細道」で、越後(と越中の境)の市振の宿で『一家[ひとつや]に遊女もねたり萩と月』という句を詠んでいますが、この(二人の)遊女も新潟から伊勢参りに行くところでした。元禄2年(1689)のことです。遊女が「衣の上の御情に大慈の恵みをたれて・・・」と芭蕉を僧侶だと思って助けを求めれば、芭蕉は「神明の加護かならずつつがなかるべし」と神明(ここでは目指す伊勢神宮)の加護を保証するという、いかにも日本らしい情景が展開されます。

 

また安藤広重の「東海道五拾三次之内 沼津」には、黄昏の沼津宿に向かって前には手に柄杓を持った母と娘(娘の柄杓は木に隠れている)が、後ろには天狗の面を背負った男が歩いていきます。この母と娘は「抜参り」で伊勢神宮に行くところで、柄杓は行く先々で施しを受けるためのものです。この絵が描かれたのは天保5年(1834)です。ではここで問題です。後ろを歩く大きな天狗の面を背負った男はどこに行くのでしょうか?

 

もう一枚、安藤広重の「東海道五拾三次之内 戸塚」をご覧ください。「めや」の軒先にお得意さまの講中札が6枚かかっていますね。ここは東海道から昔の大山への道が分岐したところですので、おそらく殆どは大山講のものでしょう。しかし左から2枚目は上に山が描かれていることから富士講のものと思われ、一番左は「太々講」という名前から伊勢講であることが分ります。


 

ということで、なかなか庚申塔にまで行き着かず申し訳ありません。

 

田 丸   宏

《インフォメーション》
・宮崎弘徳さんからクイズの答えとして次のメールがありました。
 後ろを歩く大きな天狗の面を背負った男はどこに行くのでしょうか?

 答え  鞍馬山

 違うと思いますが(^_^;)、ご愛敬。

  宮崎弘徳

・田丸さんから次のような回答がありました。
 天狗を背負った男の行き先は、四国は讃岐国の金毘羅宮です。当時は松尾寺の守護神、金毘羅大権現を祀ったもので、明治の神仏分離で「オオモノヌシノミコト」を祀る神社となりました。もともとは航海安全の神ですが、五穀豊穣などのサイドビジネスもやっていたようです。
 江戸時代、「金毘羅講」が多くつくられ、江戸からも伊勢神宮に継ぐ数の人々が参詣に訪れたといいます。広重の絵では一人しか描かれていないので、おそろく江戸のどこかの町の「金毘羅講」の代参と思われます。当時江戸から金毘羅宮までは往復20日程度かかったようです。
 なお、金毘羅宮へ参るときには天狗の面を背負っていくのが規則だったようですが、金毘羅宮と天狗との関係はわかりません。どなたかご存知の方がおられましたらご教授願います。

以上

田 丸   宏



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●庚申塔を歩く ー第一回ー 「歩く楽しみ     田丸 宏


みなさ~ん、歩いていますか?”で始まる「ちい散歩」、地井武男さんはわれわれと同期の昭和1755日生まれでした。なかなか面白い番組で残念でしたが、地井武男さんのご冥福を祈るばかりです。

 

私は地井武男さんのように初対面の人々に臆することなく話しかけることができる、という特技を持ち合わせていませんので、対面しても余計なことを言わない(?)石仏、とりわけ庚申塔という石仏を探し求めて歩いています。庚申塔についてはまた改めてお話することとして、今回は歩くことの楽しさについて一席おつきあい願いたいと存じます。

 

昔の人も(暇な)老人が何か運動しなくてはいけないという必要性を感じていたとみえ、養老2年(718)には「西国三十三観音霊場」が、続いて「坂東三十三観音霊場」、「秩父三十三観音霊場」という巡礼コースが作られました。秩父に一山追加されて「秩父三十四観音霊場」となったのは室町時代の後期といわれており、このころから「百観音霊場巡り」が盛んになっていったようです。一方「四国八十八カ所霊場」は弘仁6年(815)、弘法大師自ら開いたとされているようですが、巡拝コースが確定して多くのお遍路さんを迎えるようになったのはやはり室町時代の後期のようです。

 

江戸時代になると、講を組んで富士山や大山へ詣でたり、山伏の真似事をしたいと出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)へ参るなど、神社仏閣への参拝が盛んになっていきます。ところが皆が皆、富士山に登れるわけでもないので、木花之開耶姫を祀る神社の中には境内に「ミニ富士」と称する小丘を拵え、これに登れば富士山に登るのと同じご利益があるなどと喧伝しました。

 

お寺にもこの方面に聡い坊さんがいたとみえ、地域限定のミニ観音霊場巡り、ミニ八十八カ所巡りなどが数多く作られました。江戸の観音霊場巡りとしては「江戸三十三所観音参り」というコースが作られ、四度の改変を経て現在は「昭和新撰江戸三十三観音札所」として整備されています。私の菩提寺、駒込の清林寺(浄土宗)もその第八番札所となっています。一方弘法大師霊場巡りの方は「御府内八十八札所」として整備され、こちらも多くの巡礼者を集めたようです。

 

「昭和新撰江戸三十三観音札所」、「御府内八十八札所」について興味がおありの方は、インタネットでいろいろ資料が得られますので挑戦してみてください。

 

田 丸   宏


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